園長のひとりごと~川柳とともに50年~

50年の時を刻むマイソング(短歌)

 10月。今月は幼稚園にとって、「願書配布」「入園説明会」と忙しくもあり、来年への期待が高まる時期でもある。そして、来る11月1日の「願書受付」へと続く。

 この時期、目を転じると、空き地などで目立つのが「セイタカアワダチソウ」。外来種とはいえ、日本の晩秋にはススキなどと共にもう定着した黄色い花。車窓からも、いたるところに見られる。秋から冬への橋渡しの役割と寒さに向かうたくましさを感じる。

 今年、私の出身校である宮城教育大学が創立50周年を迎えた。その記念として同窓会会報「山にありて」の特別号が発刊された。大学学長、同窓生の那覇市長らと名前を連ねて、私の拙い回顧文が・・・。題は『 みどりのイメージ ~ 三神峯から青葉山へ ~ 』。依頼を受けて書いたが、そこに、50年の時を超えて甦った20歳のころの短歌が2首。懐かしい!!私にも若い頃があったんだ!!心の中に青春がじわ~っと蘇ってくる。

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雑踏と離れ学舎は映えて立つみどり豊けき青葉の山に 

 これは、昭和43年10月発行の宮城教育大学新聞に掲載された私の短歌5首のうちの1首である。そんな青葉山を後にして、早や50年。間もなく古希を迎えるが、1回生としての未熟な私を育んでくれた感謝を込め、昔を回想してみたい。

 当時、国立大は1期、2期に分かれて入試を行っていた。1期校の東北大から分離し、急遽開学した宮教大は2期校の後の入試となり、遅い合格発表は、多様な顔ぶれが集まる因ともなった。入学した二期校や私大を退学してきた者。5割を超える浪人生。予備校通いを続け、翌年、東北大に合格した者4、5名等々。

    昭和40年4月、そんな200名ほどのツワモノが桜の名所三神峯に集結し、大学生活は始まった。仮キャンパスとはいえ、東北大の古い校舎と講堂の間借り生活。そんな劣悪な環境のもと、高校と同じ詰襟の学生服を着て3年を過ごし、4年生の時、青葉山の新校舎へ。懐かしい。

またひとり島を離れて旅立ちぬ十五の春に職に就く子ら

    昭和44年4月、離島の網長中学校で教壇に立った。いきなりの中三担任だった。その後、宮城教育大附属小学校などを経て、11年間の校長職を全うして退職。現在も幼稚園園長として勤務している。

    卒業の時、川柳や短歌等を小冊子にし、お世話になった人に贈った。三神峯と青葉山の自然を思い、タイトルは『みどりのイメージ』。これからも、50年前の心を大切に、感謝の心で生きていきたいと思う。

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    以上が掲載された文である。私が大学時代から川柳をやっていたことは知っている人が多いけれど、実は始めたのは短歌が先であり、学生時代には欲張って短歌と川柳の両方を嗜なんでいた。川柳は大会や句会、同人誌や新聞など、発表の場はたくさんあったが、短歌は19,20歳の若造にとっては個人での活動が中心。会や結社には所属しなかったので、あの頃は河北新報の河北歌壇が唯一の発表の場。素人同然の私だったが、何故か毎週、入選する常連の一人であった。そのうちの5首が、大学新聞に掲載された。

     30歳を過ぎたころは、どちらかというと川柳一筋。短歌はあまり作らなくなった。今回、この回想文の2首のほかに、若い若~い頃の短歌を、いつもの川柳に代わって載せてみたいと思う。恥ずかしい下手な若さ丸出しの歌だが(でも、れっきとした河北歌壇入選歌ではあるが・・・。)、スクラップ帳から、50年もの昔に想いをはせて、古い作品を捜してみた。若いころの恋の歌がたくさん出てきた。機会があったら、またいつか、作品を見てほしいが・・・。

退職を近く控へる父の手に    育ちしサツキ色を競へる

目に染みる空の青さを見上げつつ     友と語らむ人生と恋

落ち葉踏む足音軽く腕組みて      若者二人われを追ひ抜く

何故におまえは吾を生みしかと 問ひてもみたし口論の夜

苔青き岩にくだける滝に来て 夏を忘れし黒山三滝